『 テレビの世界でいちばん嫌いなことは私にとって「送り手」と「受け手」ということばである。
大量(マス)にコミュニケーションを行うから「マスコミ」といい、テレビはその媒体として最大の存在のはずなのだが、
そこに厳然たる役割分担があって、一方は「送り手」、他方が「受け手」というのでは、本当のコミュニケーションとはいいがたい。
(略)
この関係の中でもっとも不幸な部分は、互いが互いを腹の底では軽蔑し合っていることである。
受け手=視聴者はたしかにテレビをよく視るが、それを俗悪なしろものだと思っている。
一方、送り手=制作者たちは、俗悪だといいながら受け手たちがもっとも好んでみるのは俗悪な番組であることを見せ続けられて、
視聴者を内心では軽蔑している。
受け手の意向の量的表現=視聴率がほとんどすべてである世界で、次に起きる現象は「悪貨が良貨を駆逐する」ことである。
(略)
「国民の民度以上の政治はない」といわれるが、テレビについても、政治と同じことがいえそうな気がする。
だが、それを嘆いたり、肯定することからは何も生まれない。
私がこういうことを言って「送り手」のなかから“裏切り者”扱いされることは一向かまわないが、
うんざりさせられるのは「受け手」のなかからタマが飛んでくることだ。
長年のテレビによる“ごますり”に慣れ親しんだ視聴者は少しでもこういうことを言うと傲慢だと非難する。
このテレビ状況で損をしているのは「受け手」のほうなのに・・・。 』
(「若者考現学」 筑紫哲也著 朝日文庫 1988年刊行 「送り手」と「受け手」より)
もう少し、お元気でこの国の行方に少なからぬ影響を与えていただきたかったです。ご冥福をお祈りいたします。